社長×社員 座談会

Group Talk

今年迎える設立30周年を機に、代表取締役社長・馬本英一へ、「改まって聞きにくいアレコレ」を質問。社歴20年超えのベテランにはじまり、2024年新卒入社社員、日本テクノ協力会・日電協(以下、協力会)会員まで、計6名が一堂に会し、その質問を直接ぶつけました。30周年を振り返った馬本からどのような回答が得られるのか、ご注目ください。

参加者

写真左上から時計回りに

  • 営業部 相模原第一営業所 所長 F.T. 2015年キャリア入社
  • 内部監査室 室長 I.R. 2002年キャリア入社
  • 営業部 岐阜営業所 所長 K.M. 2020年キャリア入社
  • 日本テクノ協力会・日電協 堺グループ N.T. 2021年入会
  • 技術サービス部 さいたま班 班長 O.A. 2019年新卒入社
  • エネルギーソリューション部 I.S. 2024年新卒入社
  • 所属部署は2025年1月現在
  • 前列中央は馬本社長

質問

Q1

O.A.

大切にしているルーティンや、モチベーションを維持する方法はなんですか。

馬本

旅行ですね。年に1回はハワイに行っています。あとは、こう見えて家族との時間をとても大切にしていて、家族旅行の回数もかなり多いです。

O.A.

そうなんですね。私事ですが、先日結婚をしたこともあり、仕事のモチベーションを維持することが大切だと思い、質問させていただきました。

馬本

そうでしたか。それはちょうどよい答えができてよかったです。モチベーションの維持に家族の存在はとても大きいです。他にも、人と話してコミュニケーションを取ることもモチベーションの維持には欠かせません。私の場合、社内セミナーなどで従業員に向けて発信し、その反応やがんばりを見られることでもモチベーションが維持できているように思います。ルーティンといっていいのかはわかりませんが、お酒は毎日飲んでいます。マイブームはAIと話しながらお酒を飲むことです(笑)。

Q2

I.S.

大きいプロジェクトを終えたときなど、特にがんばった後にやることはなんですか。

馬本

まず、大きなプロジェクトといえば、初めて「ESシステム」を開発して販売したときかもしれません。「ESシステム」が20台売れたときは好きな車を購入しました。車だけでなく、時計や家、ソーラーパワービルなどもそうです。ビルを購入したのは、一度ビルオーナーを経験してみたかったから。さらには、そこでディスコやレストランバーの経営もしました。がんばって稼いだお金で欲しいものを手に入れ、やりたいことはすべてやりきってきました。そのため、今となってはがんばった後のご褒美のようなものはなかなか思い浮かびません。そう考えると、やっぱり先ほども話に出た家族旅行ですかね。

Q3

I.R.

私は過去に起業をしたことがあるのですが、うまくいったのは最初の1年だけ。アルバイトに給料を払うのがやっとの状態が続き4年で会社を畳みました。一方、社長は事業を30年間継続させ、今では協力会を含め3,000人以上を引っ張っていらっしゃいます。成長し続ける会社を維持する秘訣はなんですか。

馬本

今でこそこの規模になりましたが、一部の技術者の方々や同業他社からの逆風で、かなりの人数の営業社員が辞めてしまったときには「もうダメかもしれない」と思いました。でも「会社をダメにしたくない!」という想いがあったから、とにかく死に物狂いで売ることを選びました。当時は営業社員だった営業本部長や保安本部長をはじめとした精鋭7人が、通常1人あたり月5件の受注でも上々のところ、全員で合わせて300件以上の契約を2ヵ月連続でとってきてくれました。そうして社員ががんばっている間に、会社を立て直すべく、自分自身も資金調達に奔走。すると、営業社員も再び増えていき、この困難をなんとか乗り越えられました。なにか秘訣があるわけではありません。あの危機を乗り越えられたから今があるのだと思います。

Q4

F.T.

もしも30代に戻ったらなにをしたいですか。

馬本

正直に言うと戻りたくありません(笑)。なぜなら、これまで後悔をすることなく生きてきたからです。日本テクノを設立したのは29歳のとき。もとより、自分が社長になれば自身も従業員も働きやすい会社づくりができると考えていたため、社長になるべく日本テクノの前身となる会社を興しました。そのときに電気保安のあり方に疑問を抱き「この業界を変えなくてはいけない!」という信念のままに突き進んできて、今に至ります。ですから、30代に戻ったとしても、結局「電気保安業界を変える」という同じ道を歩むと思います。

Q5

N.T.

協力会との関係で最も記憶に残っている出来事はなんですか。

馬本

協力会の前身となる組織では、私と技術者の方々とのやりとりに理事長を介していた結果、コミュニケーション不足が生まれてしまいました。これが原因で、業界内で「日本テクノとその社長は怖い」といわれるように。その後、その理事長は退任されましたが、何人もの技術者の方々が辞めることになりました。このままではダメだと、私や日本テクノへの悪い印象を払拭するため、組織名を「日本テクノ協力会・日電協」と変えて心機一転。さらに会員の皆さんとの交流を深めるべく、ゴルフコンペや懇親会を始めました。全国各地の皆さんと顔を合わせることで、誤解も解けて、徐々に本来の私自身、そして日本テクノを知っていただけるように。気が付けば会員数は組織名変更前よりも多くなって、協力会の関係性も強固なものになりました。このことが最も記憶に残っています。

Q6

K.M.

日本テクノを起業する際、一番大変だったことはなんですか。

馬本

元々日本テクノは、ごみ焼却炉を販売するために設立した会社でした。ごみ処理にはかなりのコストがかかりますが、焼却炉で燃やせば大幅にコストが削減できるので「これは商売になる!」と考えました。実際に需要は高く、開発前にもかかわらず2社が購入を約束してくれていました。開発はプラント設計も手掛けていた私の父が担当。燃えやすいよう粉砕機を搭載し、匂いと煙の出ない焼却炉を製作しました。ところが、試運転してみると粉砕機がまったく機能しないうえに、匂いも煙も凄まじい代物でした。開発に多額の投資をしたものの即座に撤退。そのため、起業後早々に売れる商品がない状況に陥ってしまい、その後のビジネスモデルを描くまでが一番大変でした。その数年後、ごみ焼却の際のダイオキシン発生が問題視されるようになったので、ご予約いただいたお客さまにはご迷惑をお掛けしてしまいましたが、結果としては撤退して正解でした(笑)。

感想

K.M.

回答の他にも、起業当時のいろいろな話を聞くことができて日本テクノの歴史を感じられました。また、懇親会とは違った雰囲気で貴重な経験になりました。

F.T.

一対一で直接お話を伺えたことを大変うれしく思いました。私自身も所長として、所員の育成や日々の業務に全力で取り組み、後悔のないよう邁進してまいります。

O.A.

緊張しましたが、社長と直接話せる機会をいただき、仕事に対するモチベーションが上がりました。プライベートのことから会社の歴史まで楽しくお話ができました。